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音楽学・音楽評論 ♪♪♪ 杉並区阿佐ヶ谷の音楽教室 アルス・ノーヴァ

新訳パデレフスキ自伝

月刊「ショパン」で全24回にわたって連載された、パデレフスキの自伝です。

第1回(原書第1章 少年時代 より その1) (2013年1月号)
 連載の開始にあたって
  パデレフスキ自伝について、2冊の翻訳本、新訳の出版に向けて
 あらすじ
  パデレフスキは生まれてすぐに母親を亡くし、叔母に育てられた。政治活動をしていた父は、パデレフスキが3歳のときに投獄された。彼の最初の記憶は、父が収監される情景だった。
 コラム
 パデレフスキ生誕時のポーランド

第2回(原書第1章 少年時代より その2) (2013年2月号)
 あらすじ

革命運動に参加していたパデレフスキの父親は、ロシア政府によってパデレフスキの目の前で捉えられ、1年余りの投獄生活を余儀なくされた。公明正大で農民たちの信頼の厚かった父親は、農民の陳情によって釈放される。父の投獄中、パデレフスキはピアノのレッスンを始めたが、父が事前に探していた教師はヴァイオリニストだった。
 コラム
編曲で親しまれたピアノ連弾


第3回(原書第1章 少年時代 より その3) (2013年3月号)
あらすじ

暗譜が苦手だったパデレフスキは、即興演奏でピアノを楽しんでいた。8歳になったとき、父親が再婚し、継母が来たことで環境が大きく変わった。自然とロシア語を覚えたパデレフスキは、近所の老人たちに、戦況を伝える新聞の翻訳をして喜ばれるが、老人たちを喜ばそうとするあまり、大事件が起きる。
近所でもピアノが上手だと評判になったパデレフスキは、12歳で姉と初めてのコンサートを開いた。
コラム
もてはやされた神童たち


第4回(原書第2章 ワルシャワでの学生時代 より) (2013年4月号)
 あらすじ
  12歳でワルシャワ音楽院に入学したパデレフスキは、自分が期待していたようなピアノ教師に巡り合えず、演奏法の不安を抱えたまま過ごすが、作曲理論の勉強は順調で、様々な楽器に触れることもできた。ところが学内オーケストラを巡るトラブルで2度の退学処分を受けてしまう。その後、友人と1年以上かけて行った演奏旅行で多くの困難を乗り越えることで、一層強い熱意を持って音楽院に復学し、主席で卒業した。
 コラム
ピアノを弾くこと、ピアノを勉強すること

第5回(原書第3章 ベルリンと音楽界より その1) (2013年5月号)
 あらすじ
 
ワルシャワ音楽院を卒業したパデレフスキは、若くして結婚し、長男に恵まれるが、妻は早逝してしまう。妻を亡くした後、作曲の勉強に打ち込もうと、パデレフスキは長男を妻の母に預けてベルリンに向かう。そしてフリードリッヒ・キールのもとで研鑽を積んだ。
 ベルリンでは、出版商のボック氏の仲介で、たくさんの著名な音楽家たちと交流した(リヒャルト・シュトラウス、アントン・ルービンシュタイン、ヨーゼフ・ヨアヒム、クララ・シューマン)。

 コラム

演奏中の私語

第6回(原書第3章 ベルリンと音楽界 より その2)(2013年6月号)
 あらすじ
 
ベルリンでは、出版商のボック氏の仲介で、サラサーテやダルベールといった著名な音楽家たちとも出会うことができた。しかし、一時休暇のつもりで戻ったワルシャワで、周囲の強い勧めによって、音楽院に復職することになった。たいへん骨の折れる仕事だったが、一方で、これまで足りないと思っていた一般教養の勉強に力を入れることができた。ラテン語、数学、文学、歴史と、それぞれに家庭教師を呼んで勉強した。また、新聞社のすすめで批評活動も行った。

 復職して1年後、ピアニストとして生きることを決意し、ふたたびベルリンに戻った。

 コラム
知識は人を豊かにし、人から奪うことのできない唯一のものだ


第7回(原書第4章 ウィーン・・レシェティツキとルービンシュタインより) (2013年7月号)
 あらすじ
 ウィーンで師事したレシェティツキは、すでに24歳になっていたパデレフスキに焦りをみせながらも、自ら手本を示して寛大に丁寧なレッスンを行った。パデレフスキは、長年模索していた演奏法についての悩みも解消し、レシェティツキから仕事の方法も教わる。ウィーンでは、音楽家のクラブでブラームスとも交流を深めた。

 資金が底をつきたパデレフスキは、レシェティツキの勧めでストラースブルク音楽院の教授を務める。1年の勤務の後、ウィーンに戻ったパデレフスキにウィーン・デビューの話が持ち上がり、ルッカ夫人のコンサートで共演し、大成功を収めた。

 コラム
名教師レシェティツキ


第8回(原書第5章 早すぎた成功 より) (2013年8月号)
 あらすじ
 
パリのデビュー・リサイタルも成功させたパデレフスキだったが、即座に第2回のリサイタルを催促され、困惑してしまう。しかし、期待に応えるために3週間でプログラムを用意して第2回リサイタルに臨み、またも成功させる。だが、成功の喜びに浸る余裕はなく、将来への責任に苦しむ毎日だった。
 師のレシェティツキの邸宅では、当時の偉大な指揮者たちにも会うことができた。ハンス・リヒターや、ハンス・フォン・ビュローなどとも交流を持った。

コラム
本番前の緊張を克服するために

第9回(原書第6章 パリとオランダ晩餐旅行 より)(2013年9月号)
 あらすじ

人生の中でも最も充実していたパリ時代。病弱な9歳の長男を引き取り、アパートを借りて演奏活動に邁進する。多くのパリの音楽家たちと交友を持ち、影響を受けた(知り合った音楽家たち..グノー、サン=サーンス、マスネ、ヴァンサン・ダンディ、シャルル=マリー・ヴィドール、ラロ、フォーレ、フランク)。
また、ショパン最後の弟子であるデュボア夫人と出会い、ショパンの作品解釈について貴重な助言を得る。

コラム
オランダ晩餐旅行


第10回(原書第7章 ロンドンとベルリンの謎 より)(2013年10月号)
 あらすじ
 1890年、パデレフスキはロンドン・デビューを果たした。はじめは、「パリのライオン」というキャッチコピーのために悪評を書かれたが、その後、聴衆も増えてきた。そしてシーズンを通じて、40回ものコンサートを成功させた。

 同じ年にドイツへも演奏旅行に行き、ベルリンでの初めてのコンサートで大成功を収めたが、マネージャーを志願してきたヴォルフ氏に対し、一度自分のマネージャーを断ったことがある、と拒否してしまう。その次の日のコンサートは、ヴォルフ氏の陰謀かわからないが、指揮者もオーケストラも意図的とも思えるミスだらけのひどい演奏で、初めての大失敗を経験した。ベルリンは部外者を受け入れない街だ、と痛感したパデレフスキは、その後二度とベルリンで演奏することはなかった。

コラム

19世紀末の音楽ジャーナリズム


第11回(原書第8章 ロンドンの思い出 より)(2013年11月号)
あらすじ
 ロンドンでは、後見人となった姉妹や、画家のバーン・ジョーンズ、一番の親友、アルマ・タデマなど、何人もの友人ができた。また、ヴィクトリア女王に招かれて、ウインザー城でも演奏した。
 当時、私邸での演奏会は、娯楽とみなされていて、報酬も少なく演奏中の私語も多かった。これを不満に思ったパデレフスキは、高額の報酬を要求し、演奏中に私語があると、演奏を中断して抗議の姿勢を表した。人々の態度も次第に改まり、パデレフスキは多くの音楽家たちから感謝された。

コラム
“artist”パデレフスキ


第12回(原書第9章 アメリカ より その1) (2013年12月号)
あらすじ
 「希望の国」アメリカへ演奏旅行に出かけたパデレフスキは、はじめにニューヨークに到着した。演奏旅行を招聘したスタンウェイ社は、「採算がとれればよい」という冷たい態度だった。カーネギーホールで行われた3回のコンサートは、会を重ねるごとに評判が上がった。1週間に6曲のピアノ協奏曲を演奏するなど、超人的なスケジュールでコンサートをこなした。
 リサイタルは、はじめ小さいホールで行われたが、満員となった。そして、最後の3回のリサイタルはパデレフスキの希望通り、カーネギーホールに場所を移し、大成功を収める。

コラム
新世界、アメリカ


第13回(原書第9章 アメリカ より その2)(2014年1月号)
あらすじ
 ニューヨークでは、トレットバー氏(招聘元のスタンウェイ社のマネージャー)の紹介で、多くの批評家たちと知り合い意見を交わした。そして文芸雑誌の編集長であったギルダーとは親友となり、彼が主宰する文学サロンでまた多くの芸術家たちと交流する。マーク・トゥエイン(作家)もその一人であった。カーネギー(カーネギーホール設立者)とも個人的に親しくなり、彼のチャリティ精神に感銘を受ける。そして、自らもチャリティコンサートに出演し、ますますその名がアメリカに知れ渡ることとなった。

コラム
アメリカのチャリティ精神


第14回(原書第9章 アメリカ より その3)(2014年2月号)
あらすじ
 ボストンのデビューは、旧友にも囲まれて大成功を収めた。ボストン交響楽団との共演も印象深いものだった。しかし、ピアノのアクションの調整ミスにより、腕と指を痛めてしまい、右手薬指を使わずに残りのスケジュールをこなさなければならなかった。招聘元のスタンウェイ社からはマネージメントの不備を謝罪され、わだかまりも解けて、再度の渡米を約束した。

コラム
スタンウェイ社のピアノ


第15回(原書第10章 聴衆と政治的な迂回) (2014年3月号)
あらすじ
 
初めてのアメリカ演奏旅行を終えたパデレフスキは、痛めた指を抱えながら、演奏の契約をしていたロンドンへと向かった。そこで知り合った人たちの中には政治家もたくさんいた。彼らと知り合ったことが、後にポーランド首相になったときに大いに役立つのだった。

コラム

演奏活動で培った人脈〜政治家パデレフスキ〜


第16回(原書第11章 2度目のアメリカ訪問)(2014年4月号)
あらすじ

1892年、第2回アメリカ演奏旅行を行ったパデレフスキは、第1回よりも順調に予定をこなし成功をおさめるが、指の傷に細菌が感染し、手術を受けることになる。そしてコンサートを2週間ほどキャンセルした。 翌1893年にはシカゴ万国博覧会のコンサートにも出演した。多くの指導者たちと接し、パデレフスキにとっては刺激あふれる機会となった。

コラム
音楽の中心地、シカゴ


第17回(原書第12章 幕間の作曲家)(2014年5月号)
あらすじ

 1893年は節目の年であった。再び作曲活動を始め、オペラ<マンル>の作曲にとりかかった。翌シーズンは演奏活動を休止して作曲に没頭する。私生活では、大きな存在である父を亡くすという悲劇に見舞われた。2年後には3回目のアメリカ演奏旅行を果たし、1897年にはイタリア演奏旅行に赴き、ローマでデビューを果たした。

コラム
パデレフスキの作曲活動


第18回(原書第13章 ロシア演奏旅行) (2014年6月号)
あらすじ
 
 1899年に初めてのロシア演奏旅行を行った。ポーランド人であったためか、他の国の演奏旅行のように必ずしも快く受け入れられた訳ではなく、野次を飛ばされることもあったが、作曲家のキュイなどには高く評価された。
 贅沢な暮らしをしていながら、常に警察を恐れ、自分の意見も述べようとしないロシア人は、パデレフスキにとってとても奇妙な民族にみえた。

コラム
パデレフスキにとっての“東洋のロシア人”


第19回(原書第14章 スイスの家)(2014年7月号)
あらすじ

 パデレフスキは、スイスのモルジュに念願の屋敷を購入し、病弱な息子にも最適な環境を与えることができて満足していた。一方で、息子の母親代わりに献身的に世話をしていた、友人ゴルスキの妻に好意を抱いてしまう。しかし、ゴルスキが離婚という形で身を引いたので再婚することになった。そしてオペラ《マンル》の初演が迫った1901年、息子アルフレッドが21歳の若さで亡くなった。

コラム
1901年のドレスデン


第20回(原書第15章 最速で上り詰めた頂点)(2014年8月号)
あらすじ
 ついにパデレフスキの名声は最高潮に達した。南米とオーストラリアを除けば世界に名を知られるようになった。しかし、指の柔軟性を保つために一日に何時間か練習を続けなければならず、演奏旅行にも追われ、絶えず仕事に追われていた。焦燥感が一番よくないと思いつつ、休みをとることができなかった。
 そして日露戦争勃発の直前に最後のロシア演奏旅行を行った。不穏な雰囲気を察し、二度とロシアを訪れることはないだろうと予感するのだった。

コラム
隣の芝生は青い?


第21回(原書第16章 オーストラリアとニュージーランド)(2014年9月号)
あらすじ
 初めてのオーストラリアとニュージーランドへの演奏旅行は、街をあげての歓迎を受けるなど、成功に終わった。見知らぬ土地での淋しさは、ペットのオウム、コッキー・ロバーツが癒してくれた。

コラム
パデレフスキ2番目の妻、ヘレナ



第22回 (原書第17章 ピアノへの嫌悪感)(2014年10月号)
あらすじ
 1905年、スタンウェイ社とのトラブルで他のメーカーのピアノを使うようになった頃から、ピアノに嫌気がさしてきて、演奏が苦痛になってしまった。そしてグルンヴァルトの戦いの500年祭に向けて、記念碑建立に専念した。

コラム
グルンヴァルト記念碑。


第23回(原書第18章 悲しい出来事)(2014年11月号)
あらすじ
祖国ポーランドでは、パデレフスキによる寄付金の一部で反ユダヤ思想の新聞が創刊されており、パデレフスキが創刊者となっていた。そのことにより、全米でコンサートを拒絶するようなビラが撒かれるなど、激しい非難を浴びる。パデレフスキは、誤解を解くため、そして身の潔白を証明するために、新聞に宣誓供述書を掲載したのだった。

コラム

1914年・第一次世界大戦勃発


第24回・最終回(原書第19章 祭りの日) (2014年12月号)
あらすじ
 
1914年7月31日、スイスのパデレフスキ邸では、守護神聖イグナスの祭日を祝うパーティが盛大に開かれていた。終日続いたお祭りの夜、1通の電報によって、一同が青ざめる。第一次世界大戦勃発の知らせだった。
コラム
「準備中」の回想録第2巻は?